アトリエやま
通常、土の会のメンバーからは「アトリエ山」と呼ばれ、この山のアトリエを使う人を「山のひと」と呼びならわす。この山のアトリエは、京都府木津川市鹿背山南谷にある里山の一角で、アトリエは緩やかな山一つ分を使い、ゆったりと構成されている。
水島弘一 1907-1982
水島石根 1939-2024
水島太郎 1979-
七人会
上司海雲、入江泰吉、鈴木光、水島弘一、杉本健吉、熊谷九寿、須田剋太
弘一:___奈良が好きで、奈良を愛することで集まり、文学であれ絵であれ、写真であれ、歌であれ、彫刻であれ、分け登るふもとの道は、皆異なっていても、何時かは奈良という頂上の道へ必ず出てしまう。そういう七人がもう何十年となく飽きもせず付き合っていて、こんな七人会の発表の会にまでなってしまいました____皆、種が違っていて、しかもこの内一人が欠けてもその場の盛り上がりが違ってくる。七人がそろうとこれまたなんと騒々しい杯盤狼藉の空気になることでしょう。こんなにも言いたいだけを言い、けろりと溶けあえる友人を持てたことは共にうれしいことです。___大変楽しい会で、私自身も作品を制作する張り合いができ、毎年大いに頑張りました。五回展を前に、上司海雲さんが昭和四十九年冬病床に臥され、翌年一月二十五日に逝去されました。
七人が六人になり、六人となった次の年、上司海雲遺墨展を阪急七階催し会場で主催=大佛奉賛会・七人会、後援=朝日新聞社、協賛=東大寺で昭和五十一年一月三十日〜二月四日開催。これを最後に七人会は無くなりました。」
______水島弘一作品集より(1979年発行)
土の会
土の会の成り立ち
「七人会が無くなる一方、石根が指導してきた若者達が芸大に入学して、すくすくと成長しています。卒業展には、何々賞に推されるようになりました。なかなか良い作品を見せてくれるのも楽しい事です。
私自身も何か力をぶっつけるような仕事をいたしたいと、かねがね皆と話し合って居りました。「七人会」も無くなったので、土の会という会を作ることにしました。
若者たちも参加し、発表すべく昭和51年7月に第一回、土の会展を奈良県立文化会館で開催いたしました。会員も私、石根を入れ、10人になりました。約150点にも及びました。」______水島弘一作品集より(1979年発行)
水島石根回顧展2025秋 土の会






