水島石根回顧展「愛と宇宙」開催のお知らせ


水島石根 MIZUSHIMA IWANE
 2025年秋 回顧展「愛と宇宙」
土の会
アトリエやま

場所:アトリエやま
会期:2025年10月16日~10月22日
開場:11:00-16:00


住所:〒619-0211京都府木津川市鹿背山南谷4
問い合わせ:0774-72-1323
主催:アトリエやま
共催:土の会有志


ご挨拶

彫刻家・水島石根のこれまでをたどる回顧展を「アトリエやま」にて開きます。ご縁をいただいた皆さまに心より感謝申し上げます。父の想いを受け継ぎながら、自分の彫刻も深めていけたらと思っています。


水島太郎
https//mizushima.studio/
090-5975-4495



水島石根 略歴

1939年10月19日-2024年8月4日


東大寺観音院にて終戦を迎え、
東京藝術大学彫刻科で山本豊市に師事。
卒業制作の乾漆作品「土」は大学買い上げとなる。
1968年よりアトリエやまにて制作活動を開始し、
1976年土の会結成、多くの弟子を育てた。
自身の制作活動では、多様な素材と柔軟な発想で数々の作品を生み出した。


「水島石根回顧展」に寄せて


浅井允晶


四季折々の花が咲き、緑あふれる鹿背山の、観音のみもとを彩る石根のかたどり。天使が舞い、裸婦がつどう。ぬくもりの中に色香も漂うその造形の世界は、たしかなデッサンに裏づけられた量感豊かな「愛」のかたどり。慈しみを秘めた心の響きには「美」の本質に迫る石根芸術ならではの感性がひかる。
木彫からプロンズ、乾漆やテラコッタ、また陶芸での素材を生かした表現は具象を超え、たくましい成果を生む。でも、その魔法の手は、
もはやこの世に存在しない。
なれど、その息吹きは宇宙に宿り、父・弘一と共に組織した制作集団「土の会」の活動の中でいつまでも生き続けることであろう。
(堺女子短期大学名誉教授·文博)


十一面観音菩薩立像
ブロンズ(H80cm)
(ダナン観世音寺奉納)
ア・モーレ~uno~
乾漆レリーフ(H107 W65cm)
みらい
乾漆(H64 W80 D40cm)


「石根先生との出遭いからダナンへ」 
 

2025年10月吉日
東大寺長老・東大寺総合文化センター総長 狹川普文

初めて石根先生に出遭ったのは今から約40年前、南都聖和会という南都六大寺(薬師寺・興福寺・東大寺・唐招提寺・西大寺・法隆寺)の青年僧侶らが、各分野で活躍している人の講演を聞いたり、研修に出かけたりする勉強会の活動の一環として、水島先生に陶芸を習う機会の場でした。
 その後、脱活乾漆やブロンズ造の技法を教えて貰いながら、仏像制作に励んでゆくことになるのですが、どんな時も先生から怒られたことが無く、いつも傍らに居て見守って下さっている感じでした。



 石根先生が社会的な広がりを具現化して下さった彫刻作品を三つ紹介させて戴きます。
1)1990年 愛媛県喜多郡内子町/東大寺末・施法寺新本堂本尊三尊仏光背と十一面観音菩薩像(共に脱活乾漆造)、内陣折上格天井の千体仏(ブロンズ造)
2)2000年 東大寺学園圓融館舞台中央壁面の盧舎那三尊仏(脱活乾漆造)
3)2016年 ベトナム・ダナン観世音寺奉納の十一面観音菩薩像(ブロンズ造)


 これらは、各々の関係する人たちに深く影響を与え続ける作品になっていますが、特に3)の観音像は、筆者が2010年にダナン観世音寺のトゥック・フエ・ビン住職から依頼された事案で、日本とベトナム両国から寄付を集めて制作して貰ったブロンズ像(像高80㎝・重さ30㎏)です。現地で盛大に行われた奉納式典の折に、驚きの発言がビン住職からありました。それは、「東日本大震災で逝去された人々の鎮魂のために、今度はベトナムから大理石の観音像を、東北の真言系の寺院に奉納したい。」と申し出られたこと。帰国してすぐに福島県いわき市の真福寺(高野派真言宗)にお願いした所、快諾して下さいました。尊像の大きさと重さは同じ程度にして貰うよう、ベトナム側に伝えてあったのですが、東京港に着く直前に聞いた情報で、像高1.8m・重さ1トンと聞いてびっくり。これでは本堂の中に安置する事が出来ないので、急きょ真福寺に連絡し、信徒総代の皆さんの全面協力で仮堂が建立されました。

 2018年4月、真福寺においてダナン仏教会僧侶7名と寄進者3名の計10名のベトナムの方々、日本側も超宗派の僧侶と信徒ら17名が参列されて、奉納式・開眼法要が営まれました。
 まさしく、石根先生の十一面観音菩薩像がベトナムの大理石の観音菩薩像を勧請して下さったわけで、長年アジア各国の仏跡巡拝を企画・実施している筆者としては、この出来事は奈良時代から続く両国の交流をより強固にしたと感じました。お互いにダナン市・観世音寺と、いわき市・真福寺という実家が出来たような感覚です。
 おそらくは補陀洛浄土(観音菩薩が居住する山)から我々を見守って下さっている石根先生の大きな優しさを感じて戴きたく、水島石根先生回顧展「愛と宇宙」をご案内申し上げます。先生の作品を中心に弟子達の作品も並びます。皆様のご来場をお待ちしております。
                            合 掌

狹川普文

 龍王ナーガ・ラージャ

福祉事業団のチャリティー展は毎年ですが、今年は「奈良県肢体不自由児者父母の会連会」が2年毎に開催される「南都諸大寺墨書展」の開催年なので、1月下旬にのスリランカ仏跡巡拝でスケッチした、アヌラーダプラ遺跡・ポロンナル!大乗仏教の名だたる尊像や、華厳五十五所絵巻など46点を創作しました。
 その中から、板絵「龍王ナーガ・ラージャ」を出品させて戴きます。「龍王ナーガ・ラージャ」とは、インド神話におけるコプラを神格化した蛇神のことで、ナーガは蛇→龍、ラージャは王のことです。
 スリランカ仏教寺院の入口の階段下には必ず左右にガード・ストーン、つまり「龍王ナーガ・ラージャ」が聖域を守護しています。その形相は日本の仁王像のような忿怒怒相ではなく、どこか王族の王子のような大きな蓮華と花樹を両手に捧げ、足元にはカナという従者2人を従え、本尊が祀られる堂字を守護する神像です。
 一対ですから、蓮華や花樹は左右で入れ替わりますが、頭光は、いわゆるコブラ(龍)の七匹分のかまま首が彫られ、ガナも仁王尊のような邪鬼では無く、龍王に踏まれることもありません。

板絵/ケラニヤ寺院本尊(釈尊)

板絵/ケラニヤ寺院本尊(釈尊)解説は本寺野より転像

釈尊は、仏教紀元2531年のVesak Day(釈尊生誕日)に500人の阿羅漢と共にケラニヤを訪れ、島の住民に自らの教えを説いたと伝わる。この時、王座をめぐるチュロダラとマホダラという二人の王の間に勃発寸前であった戦争を鎮める結果となった。その後、二人の王の間に永続的な平和が続き、王位を祀る場所に大きな仏塔が建てられ、それ以来ここはケラニヤ・ラジャ・マハーヴィーラと呼ばれるようになった。
 本寺は、BC543年以降に建設されたと考えられているが、南インドからドラヴィダ人の侵略によ何度も破壊された。その度に再建されるが1510年にポルトガル人によって破壊。現在の建物は、慈善家のヘレナウィジェワルダナ夫人の後援により、1927年に着工1946年に完成した。本堂中央には釈尊の坐像が祀られ、背景画は高い山々が連なる清廉な水色である。また堂内には、1927年から 1946年にかけてソリアス・メンディスが描いた美しい現代仏画が堂内の壁面を飾っている。
 我々が巡拝した2025年1月23日は木曜日であったが、それでも多くの参作者が訪れていて、境内各所で熱心に祈る姿が見受けられた。本堂に入ろうとした時、偶然お出会いした本寺の長老現下が優しく迎えて下さり、本尊の真正面に導かれ皆で『般若心経』をお明えした。2019年にスリランカを巡拝した際は、時間の関係で参拝出来なかった寺院なので感激もひとしお。

パステル画/ガル・ヴィハーラ寺院の如来像

パステル画/ガル・ヴィハーラ寺院の如来像

ポロンナルワ遺跡
ナルワは10〜12世紀にシンハラ王朝の首都があった所。その全盛期にはタイやビルマから訪れる程の仏教都市として繁栄していた。遺跡が残る旧市街は巨大な人工の貯水地のほとりにある。かつてこの島を支配してきた歴代の王たちが都市建設の際、まず最初に手掛し貯水池と水路の整備であった。
 インドのチョーラ王朝に征服されたシンハラ王朝の首都アヌラーダプラは、やむナルワに移し、シンハラ王ウィジャヤバーフ1世は灌漑設備を修復して国の建認教の普及に力を注いだ。
 このガル・ヴィハーラ寺院は、ポロンナルワ遺跡の中心を占める遺跡で、四躰の石像が拝する者を圧倒する。その四躰とは、涅槃像・立像・ふたつの坐像(内一躰は窟の中)である。
 腕を交差して佇む立像は1mもあり、一番弟子のアーナンダだとか、釈尊が悟りを得て14日目だとかの説がある。筆者は後者で創作した。


松丸弘道

石根先生と「やま」の想い出

そこへ行けば皆、芸術家になると私は陶芸の修業時代から聴いていました。遠くから鹿背山の白いアトリエを望んでいつかあそこで造形を学びたい、そんな想いが実現したときは胸がワクワクしたものです。ところが彫刻家の仕事は大変厳しくなかなか自分の思っていたことが形になりません。

今から考えればそんなことは当たり前でよくもまあ役立たずの男を置いて下さったものだと思います。
「人生はきびしい。しかし芸術はもっと厳しい。」やまで手にした本の中でその言葉を目にしたとき初めて身に染みて感じ入ったものです。わたしは石根先生の作品を焼く手伝いをさせて頂きましたが陶芸の世界では窯から出た作品が思うようにならなかったときは割ってしまうのに

石根先生は焼き上がったテラコッタ作品を削りだすではありませんか。彫刻の造形はそこまで厳しい。あきらめない。そして先生の手にした素材が感性によってあっという間に作品になること。
自在で自由であること。石根先生と「やま」の想い出は数限りなくありますが三年半のやまの空気が私の胸に残っています。


水島直春

私がイタリアに留学している時
石根兄は 周刻家のアトリエを
借り乙4ヶ月間作品作りに
没頭していました,
帰国後乾漆、テラコッタ,ブロンズ
色々な手法に沢山の
作品が出来ました
々力い時から尊敬したい
兄貴,寂しいです!!


平中 学

「石根先生と私」

先生に初めてお会いしたのは、もう半世紀以上も前になりますが高校3年生の正月3日にデッサンを持って、鹿背山にお邪魔した時でした。

華子さんが生まれて間もない頃です。

その時の石根先生は、とにかく山のように大きく感じましたし

笑顔の中にも鋭く光る三角の瞳が印象的でした。

して鳥小屋を覗くとなんと鶏まで大きくて驚いたことを今でも覚えています。


盛野貞子

私が石根先生と初めてお会いしたのは、高校2年生の17歳の時でした。その後私は美大に入り陶芸を専攻したのですが、先生から色々な事を学びたいと思い 山に通い始めました。
そして私が25歳になった時、私の望みを聞いて下さり、山に陶芸のガス窯を入れ、2年間しっかり勉強させて頂きました。残念ながら私はその道に進みませんでしたが、今でも土に触れ陶芸を楽しんでいます。それは先生に創造することの楽しさ厳しさ、沢山のことを教えて頂いたからこそ、今こうして生きがいを持って作り続けていると思います。
石根先生 本当にありがとうございました。


岩本夏子

母の知人の紹介で初めて「やま」にお伺いした時は客間からみえる景色にとても感動しました。
冷えたスイカの果汁が美味しかったことも。それから1年半ほど「やま」に通いました。
やまの生活が楽しく「でも富有柿をかごいっぱいに収穫するお手伝いなど沢山あります。
彫刻の勉強もテラコッタや乾漆、ブロンズと初めて作品にする材質で勉強させていただきました。
アトリエでは水島先生が作品をつくり漆を練る背中が今でも懐かしく思います。
たくさんの学びをありがとうございました。


津本治也

石根先生と「やま」

紙ふうせん


石根先生と初めてお会いしたのは、ちょうど40年前、僕が大学生になった年でした。
既に土の会で活動されていた玉野さんと出会い、「やま」に連れて来て頂きました。丘ひとつが丸々アトリエということに衝撃を覚えた記憶がありますが、様々な意味で想像を超えた創作活動の現場でした。先生が彫刻のみならず、あらゆる表現手法を実践されている姿に魅力を感じ、大学が休みの間は通い詰める日々が数年間続きました。


この経験があって、現在も造形に関わる自分が作られた気がします。先生と共に過ごして一番学んだことは何だろう?彫刻のことや焼きもののこと、鋳造のこと、美術に関する沢山のことに触れさせて頂いたことは言うまでも無く自分の財産になっていますが、それ以上に「ゆっくり、ゆったり」とした時間が存在するという事を教えて頂いたことは大きいかもしれません。
先生はじめ、「やま」で関わる人たちと共に過ごす時間はまさに「ゆっくり、ゆったり」だったような気がしています。

効率が重視されるのが常識の世の中で、そういった価値観だけで世の中が成り立っている訳じゃないことを体現して見せて頂いたような気がしています。
今だからこそ気付く大切なことなのでしょうか⋯⋯⋯


森有平

「石根先生に感謝を込めて」

太郎と初めて同じクラスになったのが、小学5年生の時。その年の秋、「やま」へ遊びに行ったのが、石根先生との初めての出会でした。初めて目にするドッジボールのようなザボン、幾種も実った果樹、白亜のアトリエ。そしてお庭に並ぶ彫刻の数々に圧倒され、「太郎のお父さんは、とんでもない彫刻家さんだ!」と子ども心に驚いたことを今でも鮮明に覚えています。その日に石根先生と交わした会話の内容は忘れてしまいましたが、小学生の目線に合わせてくれるお心遣いや、親しみのある話やすさなど、石根先生の作品から受けるイメージのようなお人柄を感じ取っていたように思います。

先生からは浪人の際に、デッサンや立体造形の捉え方についてご指導いただきました。

立体的ものの見方や、多様な素材の魅力に気づかせていただき、それが私の大きな財産となりました。

ただ技術を教わるだけでなく、作品と向き合う真摯な姿勢や、生き方を間近で拝見し、ものづくりに対する情熱や、人生そのものに対する向き合い方を学ばせていただけたことは宝物です。

石根先生の作品は、これからも多くの人の心に残り続けるでしょう。心よりご冥福をお祈り申し上げます。


玉野勢三

「石根先生との出会い」

高校を卒業して彫刻家を志し
「やま」に伺って52年の歳月が過ぎました。
石根先生は不肖の弟子である僕を
つもどんな時も暖かく見守り受け入れて下さった。
「やま」で出会った人々
そして教えられた事は
今も僕の魂の一番深い所で僕を支えてくれている


小西敬孝

「石根先生と山の思い出」

私と先生の出会いは、
陶芸を志して7年目、27歳の時
造形を勉強したいと思っていた時期
石根先生とであいました。
人が寝静まってる夜中に仕事をし、
いつ寝てるのかわからないぐらい
手を止める事がありません。
そんな先生の仕事に対する姿勢を目の当たりにし
仕事の厳しさを知りました。
先生のおかげで今の私があり
感謝の思いでいっぱいです。
先生….ありがとうございました。



岸野 承

石根先生との思い出


私がやまに来たのは大学を出てすぐ先生の弟さんの直春さんの美術鋳造所働くようになった23歳の時でした。そこで10年くらい働くなかで石根先生とは休みの日以外は毎日お会いし先生の制作の日々を拝見してきました。

先生のお人柄は朗らかな中に芯がしっかりとあり何があっても譲らない信念と厳しさを感じる、そういう方で沢山の方々を惹きつける魅力をお持ちでした。

私は日々の中で乾漆の仕事を教えて頂いたり、時には焼肉をご馳走になったのですが、そのような時に彫刻家として生きてらっしゃる姿を示してくださったように思います。

先日、木津川市立中央体育館に行った折に先生のブロンズ作品を拝見しました。皆さんは先生の作品というと乾漆の裸婦像のイメージが強くあると思いますが、その作品は抽象的なマリノ・マリーニを彷彿とさせるような作品なのです。その作品を昔ブロンズにした時にはわからなかった存在の強さ、器の大きさを感じさせられました。

先生の作品は壮大な力を持っているのだと改めて実感させられる事となったのです。
今はのんびりと天上から私達を見守ってくださっていることでしょう。